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第四話 橘の香の人

last update publish date: 2026-05-28 12:56:18

「春宮様、あちらへお逃げ下さい」

 目の前の人が言った。

 若い男性の声だ。

「分かった」

 春宮が逃げていったのと入れ違いに複数の足音が近付いてきた。

 警護の者達に私の声が届いてしまったらしい。

 私が急いで二の姫の寝所に入ると男性は妻戸に立って中が見えないようにしてくれた。

「何があった!」

 駆け付けてきた随身ずいじん(警護の者)達に、

「春宮様はあちらへ行かれた」

 若い男性が答える。

 随身達は春宮が逃げた方向へ足早に向かった。

「二の姫、大丈夫?」

 私の問いに二の姫が震えながら頷く。

「もう大丈夫だから寝なさい」

 私がそう言うと二の姫は素直に横になった。

「二の姫に付いていましょうか?」

 男性が言った。

「あなたが寝所に押し入らないって保証は?」

「ありません」

 男性がおかしそうに答える。

「ならお断りするわ」

「春宮の誘いを断って良かったんですか?」

 男性に聞かれた。

「春宮様は明日の晩と明後日の晩も来られるの?」

 私の問いに、

「いいえ、明日からしばらく方塞かたふたりでこの邸には来られません」

 若い男性が返答する。

 方塞かたふたり、または方忌かたいみというのは神様が滞在していて行かれない方角である。

 自分の邸から見て神様が滞在している方向に行くと祟られてしまうのでいかれないのだ。

 神様は何柱もいて、それぞれが移動しては一定期間滞在する。

「なら遊びじゃない。お断りよ」

 どの神様で方塞りなのかは知らないが婚姻というのは三日連続で通ってこなければ成立しない。

 一日でも来られない日があるなら、そしてそれが事前に分かっているなら、それは遊びなのだ。

 まぁそれ以前に春宮は通い婚ではないが。

 子供に遊びで手を出そうとするなんて信じられませんわ!

「……殿どの

 誰かの呼ぶ声がした。

 なんと言ったのか聞き取れなかったがこの男性の名前のようだ。

「それでは」

 若い男性はたちばなの香りを残して行ってしまった。

 ――ということがあったので春宮はどうしても好きになれないのだ。

 お母様の話は続いていた。

「聞いていますか。あなたは春宮様に……」

「お母様、私の名前に『子』が付いたら『みやこ(都)』になってしまいますわ」

 私が苦しまぎれにそういうと、

「それの何が悪いんですか!」

 お母様が更に怒る。

『子』が名前に付くのは帝や春宮の妃か、官位を持っている女性だけなのである(それと皇族)。

 お母様は官位を頂いているので『子』が付いている。

 それはともかく――。

 別に『みやこ』になるのがイヤだからと言う訳ではないのだが、入内はしたくない。

 殿方がされている噂をご存じ?

『孔雀うるせー!』と『ネコ邪魔!』以外で(狐は飼われているわけではないので邪魔とは言われない。殺されるけど)。

 公式行事や仕事で『あいつはあそこを間違えた』とか『しきたりもしらない恥ずかしいやつ』とか。

 些細な失態を一々あげつらってて聞いてると死にたくなりますわよ。

 死にませんけど。

 そのうえ皆してそれを日記にまで書いて……。

 あり得ませんわ!

 帝の寵愛ちょうあいを受けた更衣こうい(妃)が他の妃達からいじめられてはかなくなった(亡くなったと言う意味ですわ)物語もあるし。

 ついでに女官同士もしょっちゅう嫌がらせをしあっているし。

 貴族達の陰口と妃達のいじめ。

 内裏は地獄のようなところですわ!

 とても入内したいなんて思えない。

 それもあの春宮に……。

 はっ!?

 そうだ……!

「春宮様と中の君が幼馴染みなら入内は中の……」

「大君!」

 お母様が怒鳴る。

 まぁ自分が嫌いな人を妹に押し付けるなんて良くないですわね……。

 いくら幼馴染みでも子供に手を出す男はイヤだろう。

 内裏は地獄のようだし春宮は子供に手を出そうとするし――。

 誰か私を連れて逃げてくれないかしら……。

 一瞬、橘の香の男性が脳裏をよぎった。

 それを慌てて振り払う。

 どこの誰かも分からないんだし……。

「ええと、では勅撰和歌集を読みますので失礼致します」

 私はそう言うと、お母様がそれ以上何か言う前に北の対を離れた。

 渡殿わたどの(壁の無い渡り廊下)のところでトメが私の顔の前に棒の先から布が垂れているものをかざす(これも几帳きちょうと言って移動中に人に顔を見られないようにするものですわ)。

 渡殿を歩いていると、ふと橘の香りがした気がして立ち止まった。

 トメがかざしている几帳の隙間から辺りを見回してみたが人影は無い。

「姫様?」

 トメが怪訝そうに声を掛けてくる。

「残り香を ひとりおもひぬ 橘の こばのたきもの 恋にこがれて」

 何気なく歌を詠んだ。

 それから部屋に向かって歩き出す。

「焚きこめし 袖を返すや ひとり寝る 蛍火のこの 光頼りに」

 え……!?

 男性の声に思わず足を止めてもう一度辺りを見回したがやはり人影は無かった。

「この歌、姫様が今詠んだ……」

 トメも聞いたなら空耳ではないのだ。

 几帳の布で視界が遮られているからどこにいるのか分からないが、やはり近くに誰かいるのだ。

 なんとなく、あの橘の香の男性の声に似ていた気がするのだが――。

 気のせいかしら……。

 そもそも一度会っただけの名前も顔も知らない人なのだ(顔を知らないのは珍しくないが)。

 私は再び歩き出した。

 部屋に戻る途中に中の君の部屋の前を通り掛かると中の君が庭を見ていた。

 長くて黒いつややかな髪が後ろになびいている様は絵巻物に出てくるお姫様のようだ。

 お姫様だけど。

「中の君」

 私が声を掛けると、

「……お姉様」

 中の君が一拍遅れて顔を上げた。

 すぐには自分が『中の君』だと気付かなかったらしい。

 とはいえ私は中の君の名前を知らないから他に呼びようがないのですわ。

 引き取られたのが中の君一人という事は一人娘だったのかもしれない。

 それならここに来る前は『大姫』か『大君』と呼ばれていたはずだ(どちらも長女という意味ですわよ)。

「何を見てたの?」

「あの鳥を……」

 中の君が孔雀を指す。

「孔雀は羽が見事だと聞いていたので一度見てみたかったのです」

 中の君が言った。

 確か、お父様が孔雀は尾羽がものすごく大きくて広がっていると邪魔でしょうがないとかなんとか……。

オスはすごいらしいけど……あれはメスだから」

 私はそう答えながら庭に目を向けた。

 鳴き声も同じくらい···(悪い意味で)らしいけれど……。

 オス同士で張り合うから騒がしいんだとか。

 お父様がよく「誰それの話が良く聞こえなかった」と愚痴を言っている。

 けれど、うちにいるのはメスだから見事とは言い難い。

 よく雉子きじと間違われるくらい地味だし。

「そのうち雉子と間違えた人が食ってしまうかもしれないなぁ」

 などと叔父様が笑っていた。

 その時、庭に孔雀の羽が落ちているのに気付いた。

 青みがかかっていて多少はきれいだ。

 中の君も近くで見たいかもしれない。

 貴族の女性(特に大貴族の姫)は庭にも気軽に出られないから見にいくことは出来ないんですのよ。

「トメ、あの羽を拾ってき……」

 そう言い掛けた時、あの物語の一文が脳裏によみがえった。

〝女、孔雀の羽を(乳母子に)拾わせ給いて――〟

 え……。

 いやいやいや……。

 慌てて首を振ると、更にキヨの言葉が――。

〝君、ツユに言い給いて……〟

「ツユ!」

 思わず声を上げると、

「は、はい!」

 ツユが飛び上がった。

「あ、違うの! そこの枝の露が光っていてきれいだったから……」

 私は慌てて適当な木を指差すと、

「歌を詠んでみようかと……」

露霜つゆしもの あけにし夜の 色降りて 移り染めまし 月草の花〟

 私は急いで歌を詠んだ。

「ど、どうかしら」

 慌ててたからあまり上手く出来なかったけれど……。

「枝の露を見てとっさに読めるなんてさすがですね」

 中の君が尊敬の眼差しを向けてくる。

「た、大したことないわよ……」

 中の君と腹違いの、庭に孔雀がいる邸に住んでいる大君……。

 いやいやいや……。

 ない。

 そんなことない。

 私は春宮に入内したいなんて思ってないもの……。

〝ツユ〟は良くある名前だし……。

 そういえば中の君は春宮の幼馴染みでもある。

 でもこっちの春宮は子供が好きなのよね?

 私はちらっと中の君を盗み見た。

 二の姫(今は三の姫)よりは年上だし裳着もすんでいるけど顔とかにまだ幼さが残っているから、春宮は幼馴染みということで年には目を瞑ってくれるかもしれないが――。

「中の君は春宮様と幼馴染みだとか」

「はい、小さい頃にお目に掛かっただけですが」

 中の君が頷く。

 つまり再会してないのね……。

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