登入「春宮様、あちらへお逃げ下さい」
目の前の人が言った。 若い男性の声だ。「分かった」
春宮が逃げていったのと入れ違いに複数の足音が近付いてきた。 警護の者達に私の声が届いてしまったらしい。私が急いで二の姫の寝所に入ると男性は妻戸に立って中が見えないようにしてくれた。
「何があった!」
駆け付けてきた随身達は春宮が逃げた方向へ足早に向かった。
「二の姫、大丈夫?」
私の問いに二の姫が震えながら頷く。「もう大丈夫だから寝なさい」
私がそう言うと二の姫は素直に横になった。「二の姫に付いていましょうか?」
男性が言った。「あなたが寝所に押し入らないって保証は?」
「ありません」 男性がおかしそうに答える。「ならお断りするわ」
「春宮の誘いを断って良かったんですか?」 男性に聞かれた。「春宮様は明日の晩と明後日の晩も来られるの?」
私の問いに、 「いいえ、明日からしばらく
自分の邸から見て神様が滞在している方向に行くと祟られてしまうのでいかれないのだ。
神様は何柱もいて、それぞれが移動しては一定期間滞在する。「なら遊びじゃない。お断りよ」
どの神様で方塞りなのかは知らないが婚姻というのは三日連続で通ってこなければ成立しない。
一日でも来られない日があるなら、そしてそれが事前に分かっているなら、それは遊びなのだ。
まぁそれ以前に春宮は通い婚ではないが。子供に遊びで手を出そうとするなんて信じられませんわ!
「……
「それでは」
若い男性はお母様の話は続いていた。
「聞いていますか。あなたは春宮様に……」
「お母様、私の名前に『子』が付いたら『みやこ(都)』になってしまいますわ」 私が苦し『子』が名前に付くのは帝や春宮の妃か、官位を持っている女性だけなのである(それと皇族)。
お母様は官位を頂いているので『子』が付いている。 それはともかく――。別に『みやこ』になるのがイヤだからと言う訳ではないのだが、入内はしたくない。
殿方がされている噂をご存じ?
『孔雀うるせー!』と『ネコ邪魔!』以外で(狐は飼われているわけではないので邪魔とは言われない。殺されるけど)。
公式行事や仕事で『あいつはあそこを間違えた』とか『しきたりもしらない恥ずかしいやつ』とか。
些細な失態を一々あげつらってて聞いてると死にたくなりますわよ。
死にませんけど。そのうえ皆してそれを日記にまで書いて……。
あり得ませんわ!
帝の
貴族達の陰口と妃達のいじめ。
内裏は地獄のようなところですわ!
とても入内したいなんて思えない。
それもあの春宮に……。
はっ!?
そうだ……!「春宮様と中の君が幼馴染みなら入内は中の
まぁ自分が嫌いな人を妹に押し付けるなんて良くないですわね……。
いくら幼馴染みでも子供に手を出す男はイヤだろう。
内裏は地獄のようだし春宮は子供に手を出そうとするし――。誰か私を連れて逃げてくれないかしら……。
一瞬、橘の香の男性が脳裏をよぎった。
それを慌てて振り払う。どこの誰かも分からないんだし……。
「ええと、では勅撰和歌集を読みますので失礼致します」
私はそう言うと、お母様がそれ以上何か言う前に北の対を離れた。
渡殿を歩いていると、ふと橘の香りがした気がして立ち止まった。
トメがかざしている几帳の隙間から辺りを見回してみたが人影は無い。「姫様?」
トメが怪訝そうに声を掛けてくる。「残り香を ひとりおもひぬ 橘の こばのたきもの 恋にこがれて」
何気なく歌を詠んだ。それから部屋に向かって歩き出す。
「焚きこめし 袖を返すや ひとり寝る 蛍火のこの 光頼りに」
え……!?
男性の声に思わず足を止めてもう一度辺りを見回したがやはり人影は無かった。
「この歌、姫様が今詠んだ……」
トメも聞いたなら空耳ではないのだ。
几帳の布で視界が遮られているからどこにいるのか分からないが、やはり近くに誰かいるのだ。なんとなく、あの橘の香の男性の声に似ていた気がするのだが――。
気のせいかしら……。
そもそも一度会っただけの名前も顔も知らない人なのだ(顔を知らないのは珍しくないが)。
私は再び歩き出した。 部屋に戻る途中に中の君の部屋の前を通り掛かると中の君が庭を見ていた。 長くて黒い
お姫様だけど。
「中の君」
私が声を掛けると、 「……お姉様」 中の君が一拍遅れて顔を上げた。すぐには自分が『中の君』だと気付かなかったらしい。
とはいえ私は中の君の名前を知らないから他に呼びようがないのですわ。
引き取られたのが中の君一人という事は一人娘だったのかもしれない。
それならここに来る前は『大姫』か『大君』と呼ばれていたはずだ(どちらも長女という意味ですわよ)。「何を見てたの?」
「あの鳥を……」 中の君が孔雀を指す。「孔雀は羽が見事だと聞いていたので一度見てみたかったのです」
中の君が言った。確か、お父様が孔雀は尾羽がものすごく大きくて広がっていると邪魔でしょうがないとかなんとか……。
「
鳴き声も同じくらい
お父様がよく「誰それの話が良く聞こえなかった」と愚痴を言っている。
けれど、うちにいるのはメスだから見事とは言い難い。
よく「そのうち雉子と間違えた人が食ってしまうかもしれないなぁ」
などと叔父様が笑っていた。その時、庭に孔雀の羽が落ちているのに気付いた。
青みがかかっていて多少はきれいだ。 中の君も近くで見たいかもしれない。貴族の女性(特に大貴族の姫)は庭にも気軽に出られないから見にいくことは出来ないんですのよ。
「トメ、あの羽を拾ってき……」
そう言い掛けた時、あの物語の一文が脳裏に〝女、孔雀の羽を(乳母子に)拾わせ給いて――〟
え……。
いやいやいや……。
慌てて首を振ると、更にキヨの言葉が――。
〝君、ツユに言い給いて……〟
「ツユ!」
思わず声を上げると、 「は、はい!」 ツユが飛び上がった。「あ、違うの! そこの枝の露が光っていてきれいだったから……」
私は慌てて適当な木を指差すと、 「歌を詠んでみようかと……」〝
私は急いで歌を詠んだ。
「ど、どうかしら」
慌ててたからあまり上手く出来なかったけれど……。
「枝の露を見てとっさに読めるなんてさすがですね」
中の君が尊敬の眼差しを向けてくる。「た、大したことないわよ……」
中の君と腹違いの、庭に孔雀がいる邸に住んでいる大君……。
いやいやいや……。
ない。
そんなことない。 私は春宮に入内したいなんて思ってないもの……。〝ツユ〟は良くある名前だし……。
そういえば中の君は春宮の幼馴染みでもある。
でもこっちの春宮は子供が好きなのよね?
私はちらっと中の君を盗み見た。
二の姫(今は三の姫)よりは年上だし裳着もすんでいるけど顔とかにまだ幼さが残っているから、春宮は幼馴染みということで年には目を瞑ってくれるかもしれないが――。
「中の君は春宮様と幼馴染みだとか」
「はい、小さい頃にお目に掛かっただけですが」 中の君が頷く。つまり再会してないのね……。
深夜――「いかにせん 山で聞きつる 呼子鳥 春の宮へと おとづれんかな」 外から頼浮の声がした。 春宮が来たのだろう。もちろん中の君のところに。 忘れてましたけど今日のお客様方の中に春宮がいたんでしたわね。 宴が終わったから中の君に会いに来たのだ。 頼浮に――というか帝以外の人に春宮を追い返せるとは思えないが一応通していいか聞いてくれてるのだろう。 私は妻戸を軽く叩いた。 頼浮はすぐそこにいるはずだ。「春宮様は中の君のところに通して構わないって言ったはずよ」 私が小声で囁く。「春宮はお通ししたのですが少納言がこちらに向かっているのです」「よく招待したわね」 てっきり出入り禁止になったのかと思ってましたわ。「別の少納言です」 頼浮が私の考えを察して言った。 少納言というのは――というか各官職の長官以外はほとんどがそうなのだが――何人もいるのだ。 だから官職名の前に『何々の~』とつけて区別するのである。「二人は部屋を出たんでしょ」 中の君がいないのなら別に部屋に入られたところで構わない。「いえ、今日は中の君の母屋で……」「あら……」 つまりこのままだと春宮と少納言が鉢合わせしてしまうのだ。 だから私の判断を仰ぎに来たらしい。「…………」 私は考え込んだ。 これは使えるかも知れませんわ――。「いかがいたしますか?」「いいわ。少納言をそのまま行かせて」「……よろしいんですか?」 頼浮が驚いたように言った。 驚くくらいなら最初から追い返せばいいでしょうに。「春宮様と中の君が一緒にいるのを見たって少納言が言い触らしてくれれば入内させるしかなくなるでしょう」
「私は必要に迫られても詠めるかどうか……」 中の君が悩ましげに言った。「…………」 さすがにそれはそれで少々問題がある。 女性にとって楽器と歌は絶対に必要な教養なのだ。 殿方は苦手でもなんとかなるのだが女性は歌が出来ないと婿取りの時に困る。 最初のうちは親が代筆すると言っても最後には自分で懸想文に返歌をしなければならないのだ。 意味もなく詠むほどではなくても、必要に迫られて詠めないのはダメだろう。 特に入内したら何かと詠まなければならなくなるはずなのだ。 というか入内できなかったら貴族の婿を迎えることになるのに歌が詠めなかったら困りますわ! 数日後―― 朝早くに頼浮の歌が聞こえた。「君が振る 袖に触れにし 朝露は 我が涙をや 思ひおこせと」 後朝の歌(朝、恋人のところから帰ってから贈る歌)のようにも聞こえるが、おそらく『触れにし』と言いたいのだろう。 どうやらお父様が死穢に触れたらしい。 となると潔斎のために邸にいるはずだ。 私はお父様の元へ向かった。「お父様、今はまだ中の君の母君の喪中ではありませんの?」 私はお父様と御簾越しで向かい合って言った。「そうだが、お前には関係ないだろう」「お父様と中の君にはあるでしょう」「それはまぁ……」「私、心配ですわ」「姫様、気にしすぎですわ。怨霊なんて」 打ち合わせ通りトメが言った。「怨霊!?」 お父様が目を剥く。「そうね、そうかもしれないわね」 私がトメに答える。「どういうことだ!?」 思った通りお父様が食い付いてきた。 怨霊というのは恐れら
夕方、部屋に戻った私(左大臣の大君の方)はトメに今後、中の君宛の文は私に届けさせるようにと指示した。「北の方様のお耳に入ってしまったら……」「手習いや歌のお稽古で紙が沢山必要だと答えればいいわ」 字にしろ歌にしろ女御になるなら上手ければ上手いほどいいのだ。 勅撰和歌集というのは実力で選ばれる(帝以外)。 例え妃であろうと忖度では入れてもらえたりはしない。 にもかかわらず入集している妃は多い。 それくらい歴代の妃達は皆、優秀なのだ。 当然、私も次に勅撰和歌集が作られることになったときは一首くらいは入集できるような歌が作れる方がいいに決まっているのだから手習いや歌のお稽古に紙を沢山使うと言えばお母様は納得するはずだ。 帝にしても例外的に入れてもらえると言っても優れている歌だけだ。 どうしても自分の歌を勅撰和歌集に入れたくて、こっそり他の人の歌を抜いて自分の歌を入れてしまった帝がいるくらいである。 それを周りに知られてしまっているというのも中々恥ずかしいと思いますけど……。 まぁもう崩御されているからいいのですけど……。「姫君の亡き者にしたい誰かが蛇を箱に入れて送ってきたのです」 キヨが物語を読んでいた。「なんてひどい!」「怖いわ! 私、蛇嫌い!」 二の姫と三の姫が口々に言った。「蛇が失敗したと分かると今度は食事に毒を入れました。 毒を入れたのが自分だと分からないように全員の食事に混ぜたので邸の人間は皆、寝込んでしまいました。 幼かった一番下の妹君は助からず……」「なんですって!」 私(左大臣の大君の方)は大声を出して跳ね起きた。「姫様!?」 トメや他の女房達も飛び起きて集まってくる。「いかがされましたか!」
私(左大臣の大君の方)は目を覚ました。 せっかく物語の夢を見たのに参考になりそうなことはありませんでしたわ。 箏のお稽古をしていた中の君の手が止まった。 中の君の箏の腕は上達しているものの、まだ人前で披露できるほどではない(あれからずっとお稽古していたんですのよ)。「やっぱり、私には……」「後! 落ち込むのは後にしましょう! そういうのは宴が終わってからにしないと間に合いませんわ!」 中の君はしょっちゅう落ち込んでは手が止まりそうになる。 だが落ち込んでいても手を動かさなければ間に合わない。 中の君の年なら習い始めて七、八年くらい経っていなければならない。 それが習い始めて二、三年の四の姫より下……上手くないとなると、ほとんどお稽古していなかったという事になる。 とても一月や二月の練習では……。 これでは中の君が恥をかいてしまう。 中の君の演奏は北の対にも聞こえているはずなのにお母様はやらなくていいとは言ってこない。 宴の席で中の君は箏が下……上手くないと周知されてしまったら中の君を入内させようと言い出せなくなる(言ったところで認めてもらえませんわ!)。 どうしましょう……。 とてもではないけれど四十の賀の宴で披露できる腕前ではない。 お稽古を続ければ上手くなりそうではあるから入内(出来るようになったとして)までにはなんとかなりそうなのだが宴には間に合いそうにない。 中の君が溜息を吐いた。「お姉様はなんでもお出来になるのですね。それに引き換え私は……」「お稽古しただけよ」 何しろ幼い頃から、いずれ入内するのだから妃として恥ずかしくないようにと一通りやらされてきた。 入内してすぐに中宮に|冊立《さ
「あなたの父君以外にですか?」 頼浮が答える。 左大臣は上司というと少し語弊があるのだが少納言より上というのはその通りだ。 左大臣は常設の官職の中では一番上なのである。 摂政、関白、太政大臣は左大臣より上ですけど臨時なので必ずいるわけではありませんのよ(今は太政大臣は置かれていますけど)。 私は頼浮に、物語の主人公が上司の呼び出しで女性の元に行かれなかった物語の話をした。「お父様が娘の婚姻の晩に宴に呼んだりするわけないでしょ」 というか、宴だと言って左大臣邸に呼ばれては困りますわ。「宴では嘘だと分かった時点で引き返してきてしまいますよ」 頼浮はそう答えてから何かを思い付いたように口を噤んだ。「……今夜来るのを止められなかったら明日、試してみます」「今夜は無理なのに明日ならなんとかなるの? 何か手があるってこと?」「道に動物の死体を置いておきます」 死体は死穢といって見ると数日間、潔斎のため自宅にいなければならない。「そのための牛車でしょ」 牛車の中と外は別の空間だから死体の側を通っても死穢に触れたことにならないとされているのだ(見なければ、ですけど)。 貴族がいちいち牛車で移動する理由の一つはそれなのである。「そうはいっても死体は避けますから道を変えます。行く先々の道に置いておけば……」 死体を乗り越えていくわけではないのなら避けなければならない。 広い道ばかりではないのだから横を通れないのなら引き返して別の道を通る必要がある(牛車というのはちょっとした小屋くらいの大きさがあるので狭い道だと避けられないことがありますのよ)。 そのため上手く考えて通り道に置けばかなりの遠回りになる――朝までに左大臣家に着かないくらいの。「今夜は?」「牛車に細工します」 頼浮の言葉を聞いて任せることにした。
「トメ、これを春宮様に。左大臣家の姫だと言ってね。中の君ではなく」 私は歌を書いた文をトメに渡した。 あの歌の贈り主が他の人なら春宮は『左大臣家の姫』は私だと考えるだろう。私のことを突然わけの分からない歌を贈ってきた変な女だと思うかもしれないが。 あの歌が春宮なら中の君からだと思うはずだ。 筆跡が違うがそれは私の代筆だと言えばいい。最初のうちは親などが代筆するものだ。「申し訳ありません、お姉様。ありがとうございます」 中の君がすまなそうに頭を下げる。「いいのよ、私は内裏になんて行きたくないから」 中の君が春宮と結ばれてくれれば双方が幸せになれるわけだし。「春宮様も同じことを仰っていました」 中の君が遠い目をしながら言った。 おそらく昔、聞いた話なのだろう。 今は春宮は内裏に住んでいるわけだし。「そう……」 私はなんと言っていいか分からないまま頷いた。 まぁ春宮がいやいや内裏に住んでいるのなら尚のこと中の君が側でお心をお慰めしてあげた方がいいのだから入内は中の君の方がいいですわよね。 春宮にとっても中の君にとっても――。 決して入内を押し付けようとしているわけではありませんわよ。 その夜――「漁火の ほのかな灯り 篝火と 誘ひと紛ふ 迷ふ虫かな」(灯りに誘われた虫が迷い込んできました) 外から随身の声がした。 他の随身に言っているのでなければ私に言っているということになるけど……。 誘われた? 名前を聞いたから勘違いしたのかしら……? 私が無視して寝ようとした時、妻戸を叩く音がした。 呆れた……。 図々しいにもほどが&hel